主の公現

マタイによる福音 1・1〜12
2006年1月8日


昔あるところに賢くて智恵のある男の人が住んでいました。
ある日彼はかわいがっていた幼い少年にとても美しい遊びを教えてやりました。
「さあ、今からお前にビー玉を一つずつ投げるぞ。
どの玉も他のものとは違う色と名前を持っているんだ。これは喜びという玉で、これは仕事という玉だ。それからそれは平和という玉で、あそこにあるのは苦しみという玉だ。どんな玉でも一度つかんだらすぐにわしに向かって投げ返すんだ。なぜならそれがこの遊びのポイントだからだよ。つまりお互いに玉を投げ合うわけだよ。」

ビー玉遊びが始まりました。
しばらくビー玉を投げ合っているうちに、少年はきれいに光っているビー玉がほしくなり、それをぎゅっとつかみました。すると、そのビー玉は割れてしまいました。
びっくりした少年は飛んでくる他のビー玉を取らなければいけないことを忘れてしまいました。少年は割れたビー玉を手に取ろうと必死になりましたが、それはどんどん小さく砕けていきました。結局少年は砕けたガラス片で怪我をし、少年の手からは血が流れ出ました。
少年をかわいがっていた男の人は少年をかわいそうに思って、腰を曲げてビー玉の破片を拾い始めました。すると、彼の体にも傷ができました。ところが、その傷が増えれば増えるほど、少年の傷は一つずつ癒えていきました。
その瞬間、少年は自分が何をしなければならないのかに気付きました。
喜びというビー玉が少年の手に入ってきた時、彼はすぐさま男の人にそれを投げ返しました。すると、そのビー玉は見事に光り輝きました。苦しみというビー玉が飛んできた時も同じようにしました。その玉は飛んでいるうちに、苦しみの色は喜びの色に変わりました。ビー玉遊びはとても面白いものでした。

新しい年が明けました。
神様は今年一年も私たちに多くのビー玉を投げられることでしょう。
喜びという玉、平和という玉、仕事という玉、苦しみという玉。
持ちたい、ほしいと言って、飛んでくるビー玉を神様に投げ返さなければ、私たちの手には傷ができるだけです。ビー玉を取ってすぐ神様に投げ返せば、苦しみや悲しみといった玉も、いつの間にか喜びという玉に変わるはずです。
私たちと神様との楽しいビー玉遊びが始まりました。
幼い少年と智恵のある人が楽しんだ遊びのように、私たちも神様と素敵なビー玉遊びを通じて、今年一年も喜びに、また平和に満ちた一年にすることができるように努めましょう。

アーメン

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