2007年5月27日

 アルベール・カミュ『正義の人びと』
―愛と正義と死と― 


講師:西川宏人先生(上智大学文学部名誉教授)


アルベール・カミュ『正義の人びと』イエスとムルソー
―愛と正義と死と― 
西川 宏人  
2007年5月27日(日) パリ・カトリックセンターにて


この芝居の上演は、『ペスト』刊行2年後の1949年12月15日です。1949年といえば、朝鮮戦争が始まる前の年で、米ソの対立が激化しつつあった時代、別の表現を借りると自由主義社会と共産主義社会との対立が先鋭化しつつあった時代でもあります。彼の『Cahier手帖』には『ペスト』『正義の人びと』『反抗的人間』がほぼ同時進行のように記録されています。しかし、もちろん『ペスト』のほうが早くから構想されていて、それが終わるころ『正義の人びと』のノートが書かれるようになりました。これら三作品には、カミュの、この世の中の不正、混乱、悪徳、あるいは不条理absurditeというものに対する姿勢、根本的態度が描き出されていると言えます。
それは、『N.R.F』誌1957年6月号、7月号に掲載された「ギロチンに関する考察」に述べられた次の一節に要約されていると言っても過言ではないと思います。

  1. 義人(正義の人)という人たちはいない。ただ多かれ少なかれ正義を愛する心の持ち主たちがいるだけだ。生きるということは、少なくともこうしたことを認識することと、そしてわれわれの行為の総計に、われわれが世界に投じた悪をいくらかでも償うような善を少しでも加えることを可能にしてくれるのだ。(「ギロチンに関する考察」p.1055)

 

この文章の「正義を愛する心の持ち主」と訳した個所は、フランス語でdes cœurs plus ou moins pauvres en justiceとあります。マタイ福音書(V-3)の邦訳で「心の貧しきもの」と訳されているこの個所は、ラテン語ではbeati pauperes spirituであり、ジュネーヴ訳では、Heureux les pauvres en espritとなっています。また、Jerusalem訳ではHeureux ceux qui ont une ame de pauvreとあります。マタイ福音書の日本語訳「心の貧しきもの」は、ちょっと分りにくいと思いますが、Robertの辞書ではceux qui aiment la pauvreteという意味だとしています。これだとイエスの言葉として納得できるし、カミュの表現にも聖書の意味が反映されていることが了解できましょう。確かに「義人」といえる人はイエスのみであることは、キリスト教社会では容易に認められることです。ご存知のように、姦通の女の裁きを求めてきたファリサイ派を始めとする群集に、イエスが「罪なき者、石もて打て」と言ったところ、群衆は一人去り二人去りして、誰もいなくなったというヨハネ福音書8章3節以下が伝えるエピソードについて、多くの注釈者は、この場合義人はイエスしかいなかったからだ、と言います。

ところで、カミュはこの脚本を、サヴィンコフの『あるテロリストの回想』(1909年)によって書き上げたと言われていますが、この本の邦訳は去る3月岩波現代文庫で『テロリスト群像』という表題で上下二巻本が刊行されましたので、容易に読むことができます。
それによりますと、イヴァン・カリャーエフもドーラも実在の人物で、ボリス・アネンコフもこの回想録の著者であるサヴィンコフです。またかなりの部分をこの『回想録』によっているとカミュ自身認めています。
カリャーエフは実際にも詩人で、ドーラとともに口ずさむ詩も彼の作品だそうです。作者カミュは、このカリャーエフの言動に、純粋なテロリスト像を託し、権力を行使して恐怖政治(これこそ言葉の本来の意味でTerreurである)を行う帝政ロシアのみならず、当時の全体主義・ナチズムに対する厳しい批判を込めていたのでしょうが、同時に上演当時においては、レーニンに始まるスターリニズムの圧制批判もあったと考えられます。つまり、反対派、批判者たちに刺客を放って、暗々裏に消してしまうか、理由もなく逮捕して牢獄に幽閉してしまう政治体制に対する批判ともなっていました。彼カミュは、個人の基本的自由を拘束する体制には耐えられなかっただけに、当時の左翼陣営が模範あるいは理想郷と仰いでいたソヴィエト体制を賛美することに同調できませんでした。
さて、この芝居で、カリャーエフが、大公一人を爆破しようとするのも、当時の帝政ロシアの政治の実権を握っているのが大公であり、そのために数多の庶民が貧困にあえいでいることが赦せなかったからです。彼自身の言葉で「ぼくが殺すのは彼ではない。専制政治を殺すのだ」と言わせていますが、これこそカリャーエフの目的が、詩人に相応しい純粋なものであることを示しています。
だからこそ、大公と一緒に彼の甥と姪である子供たちが馬車に乗っているのが見えると彼カリャーエフは爆弾を投げられませんでした。また大公妃が乗り合わせていても「投げなかっただろう」とも言います。いかに大公の庇護の下に生活していようとも、直接権力を行使しているのは大公自身であって、彼ら子供たちではないからです。夫人や子供は関係がないというわけです。この問題、カリャーエフが爆弾を投げなかった問題をめぐって、アネンコフ、ドーラ、ステパン、ヴォワノフ、カリャーエフらの間で議論が交わされます。ステパンは、カリャーエフが組織の命令に従わなかった、と非難しますが、議論の結果アネンコフがカリャーエフの行動を是とします。この子供たちが同席していたことをめぐって、後に、牢獄にカリャーエフを訪れた大公妃はカリャーエフに、子供たちは意地悪で貧民に施しをするのも嫌悪するのに、大公は思いやりのある人格者だったのになぜなの? と言って問い詰めるけれど、それは権力の行使者という観点から見れば、別問題ということになります。そして、大公殺害に成功すると、彼カリャーエフは絞首刑になることをすすんで承認します。これはカミュが重要視するこの作品の中核をなす思想です。ドーラが「私たちが彼(大公)を殺した!」と叫ぶのも、彼ら革命的社会党 Parti socialiste revolutionnaire の党員が一体となって、人民を救うために、その癌と目する対象を、その対象だけを殺害することを目標としていたからです。もちろん、そうした観点は、政治のレヴェルから見れば必ずしも正鵠を得てはいないかもしれませんが、彼らにとっては、それこそが民衆を救う唯一の手段であると考えられた訳です。しかし、ドーラとカリャーエフがそのこと自体民衆からは理解されないことを見抜いているだけに、ご存知のようにカミュの『シーシュポスの神話』が解説している、再び転げ落ちることを承知しながら巨石を山上に押し上げていくシーシュポスのように、いっそう悲劇的であると言えましょう。
ここで、カミュの悲劇の概念について紹介しておきます。彼は、オイディプス王のように、自らの知らずに犯した父親殺しの罪が発覚するのを予感しつつ、ライオネス王殺害犯人の追及を促し、その挙句自らの目をつぶして旅に出るわけですが、シーシュポスと同様悲劇的結末を知りつつあえてそれに向かって進むのを悲劇的英雄だと言います。したがって、それに反するのが、シェークスピアの『リア王』でしょうか。カミュの見解によれば、カリャーエフをはじめドーラたちこの革命的社会党のメンバーはまさに悲劇的な道を邁進していることになります。また、この作品は、牢獄のシーンの第4幕を除くとほとんど一つの部屋の中で展開する五幕物です。つまり、フランスの伝統的な古典悲劇の構成に準じています。カミュはこの作品を現代悲劇とみなしていたのでしょう。
ところで、Pleiade版でこの作品のあとに掲載されている「心優しい殺人者たちMeurtres delicats」のなかでカミュは次のように書いています。

  1. これらの感情は、代理人による殺人が行われる今日、驚くべき感情である。テロは安易なものとなってしまった。つまり、テロには事務局がある。それは、もはや犠牲者の前に立ちはだかる真の殺人者ではなく、委任された役人である。

 

しかし、カリャーエフたちは、他者から命令されたり、委託されて殺人を実行したのでもなく、また暴力によって権力を奪取しようとも考えていませんでした。この点、政権奪取と維持を目標とした後のレーニン、スターリンたちとは根本的に異なっています。
カリャーエフが子供たちが同乗していたことで爆弾を投げなかったときの論争の中の一節を紹介しましょう。

Bステパン われわれが、子供たちを忘れることを決定したとき、その日、われわれはこの世の主となり、革命が勝利するのだ。
ドーラ その日、革命は人類全体の憎悪の対象となるのよ。

この対話は、まさにレーニン、スターリンらの革命とこの芝居の主人公たちの目指す革命との落差、もしくは次元の相違を示していましょう。
作品の中には具体的に述べられてはいませんが、彼らは権力というものが、必ず腐敗し、それ自体悪しきものを内包することを感じ取っていたのかもしれません。実際、地下鉄サリン事件においても、アルカイダによるテロにしても、立案者もしくは指令する者は陰にいて、兵隊もしくは忠実な手下を実行者に仕立てています。戦争においても同様です。たとえば、乃木将軍は、自ら最前線に立ち、二人の息子をその戦場で戦死させてしまいましたけれど、しかし太平洋戦争において、いわゆる将軍たちはその係累も含めて後方で指揮を取りました。例外的に山本五十六元帥を始め、2,3の将軍は戦死していますが、東條を初め多くは国内にいて生き残りましたし、今日世界語になっているカミカゼ特攻隊を考案した幹部も同様です(実は先日見たこの作品の上演のパンフレットにもドーラのことを「女カミカゼの前触れ」と書いてありました)。先日のMichael Mooreの映画「華氏911度」では、米国の国会議員のうちイラクに子息を派遣していたのは一人だけでした。つねに殺人もしくは戦争の実行者は、権力者の係累ではなく、多くは底辺の人たちです。つまり、殺人もしくは戦争の考案者と実行者とが分業化しているという問題を、カミュはこの作品で告発しています。ところで、日本では現在進行形で憲法九条の不戦条項が改変されようとしていますが、権力側の目論んでいる兵隊の出自階層はニートと呼ばれる自分の位置もしくは生きるよすがを決めかねている若年層と職の無い貧困層だと言われています。高給と衣食さえ与えればいくらでも集められるというわけでしょう。かつて、貧困のどん底にあった東北の農村出身の兵士たちが一番勇敢であった、という記述を読んだことがありますが、それは充分に食料が与えられて「天皇陛下の御恩に報いるために」という教えに忠実に働いたからだそうです。こうした前例を見ても、社会階層の格差が大きくなればなるほどよろしいということでしょうか。イラク派遣のアメリカの兵隊の出自階層を髣髴とさせるではありませんか。

ところで、カミュは、この作品の冒頭に、Romeo and Juliette (Acte IV, scene 5)から
O love ! O life ! Not life but love in deth
という台詞を載せています。恐らく幕が上がる前に朗読されたと思われます。しかし、先日の上演では、それはありませんでしたが、この台詞が示すように、愛と生、これらがこの芝居のライトモチーフと言ってもいいくらいです。しかし、この<生>には<死>が隣接しています。彼らの論理では、民衆の<生>を救おうとする行為は、敵のみならず自らの<死>に直結しているからです。カリャーエフは、生を愛するからこそ爆弾を投げると断言します。彼にとっての生は、自分だけの生ではなく、生きとし生けるものすべての生を愛することです。そのためには、自己の生を捨てて、多数の生を妨げる存在を排除することこそ真の愛であると考えるわけです。
この劇の中で、彼の対極に置かれるステパンは、牢獄での3年間の過酷な体験から「目的のためには何事をも辞さない」という考えの持ち主で、正義を愛し、規律を重んじ、権力を憎むがゆえに、先に紹介しましたように、敵を倒す爆弾の巻き添えに対象の人物以外の人びとを巻き込んでもかまわないと主張します。ニヒルな革命家として登場しますが、『テロリスト群像』には、ステパンのような極端な人物は存在しませんから、カミュは、演劇的にカリャーエフの純粋さを際立たせる効果を生むためにこの人物を創造したのでしょう。
ところで、カリャーエフは、

C「ぼくは生を愛する。退屈などしていない。生を愛するからこそ、革命に身を投じたのだ。」とステパンに言います。また、ドーラには「ぼくにはいつでも人生がすばらしいものに見える。ぼくは、美を、幸福を愛している! だからこそ独裁政治を憎む。どう説明したらいいかなぁ? 革命、もちろんだよ! だが、それは生のため、生に一つのチャンスを与えるための革命だ! 分ってくれるね?」と打ち明けます。

しかし、一方ドーラも、カリャーエフもそれによって人民から理解されるとは考えていません。先日の日曜日の「分かち合い」の席で、イエスがわれわれの身近にいても、われわれは気づかないだろう、というバルブー神父の説明がありましたが、彼らは人民のために身を挺して独裁者を倒そうとしていますが、そのことを人民に理解されようとも考えていないし、それによって人民から感謝されようなどと思い上がってもいません。人民が気づかず、人民から理解されなくても当然だと悟っています。第3幕のカリャーエフとドーラとの悲痛な対話をご覧ください。

Dカリャーエフ「ぼくたちは人民を愛している。」 ドーラ「愛してます。ほんとうに。なんの支えもない、茫漠とした愛、不幸な愛で、私たちは人民を愛しているの。(・・・)そして人民は私たちを愛しているのかしら? 私たちが人民を愛していることを、あの人たちは知っているのかしら? 人民は何も言わず、ただ黙っている! あぁ 黙っているのよ!・・・」 カリャーエフ「しかし、それが愛というものさ。すべてを与え、報いられる希望もなしにすべてを犠牲にすることが・・・」 ドーラ「多分そうでしょうね。それこそ絶対的な愛、純粋で孤独な愛、実際そのためにこそ私は燃え上るの・・・」

こうした二人の人民への愛は、旧約聖書の「雅歌」の中で歌われる新妻と夫との愛を思わせます。夫は姿を一度見せて、新妻に声をかけたきりで、彼女がいくら追い求めても、彼女のもとに戻って来ません。このストーリーを、17世紀の有名な説教家ボシュエは、イエスを待ち望む現代の信者の心境になぞらえています。たしかに、信ずる人々はイエスの再臨を、神の正義の地上での実現を待ち焦がれていますが、イエスは一度人びとに姿を現したきりで、いまだ再臨しません。また、一方イエスほうも、民衆のために力を尽くしたのに、最後には民衆のみならず、弟子たちからも裏切られ、見捨てられました。しかし、すべてを与えながら報いられることもなく忘れ去られる愛こそ、純粋の愛と言わねばならないのでしょうか。これは、カミュが『反抗的人間』の中で語るプロメテウスの人類愛にもなぞらえることもできましょう。
ドーラはこらえ切れずに、カリャーエフに、主義主張をこえた、いわば人間的なエゴイスティックな愛を求めるけれど、カリャーエフはなかなか本心が言えません。ドーラは革命の理想に縛られない、普通の人間として愛し合いたいという心境を切々と訴えます。(ドーラの告白を読むこと)

E カリャーエフ (一瞬沈黙してから) 誰だって、ぼくほどにきみを愛するものはいないよ。
ドーラ 分ってます。だけど、世の中の人たちと同じように愛したほうがいいでしょう?
カリャーエフ ぼくはどんな人とも違うんだ。ぼくはぼくなりにきみを愛している。
ドーラ 正義よりも、「組織」よりも、私を愛している?
カリャーエフ ぼくはきみたちを切り離して考えていない。きみや「組織」や正義を。
ドーラ そう、だけど答えて、お願いだから、答えて。あなたは、孤独のなかで、やさしい心で、エゴイスティックに、私を愛してくれる? たとえ、私が不正義だったとしても、愛してくれるかしら?
カリャーエフ たとえ不正義であっても、それでもきみを.愛することができるとしたら、ぼくが愛するのは今のきみとは違うきみなんだ。
ドーラ それは答えになっていないわ。ただ、こういうことなの、もし私が「組織」の一員でなかったとしても、愛してくれるかしら?
カリャーエフ それじゃ一体、きみはどこにいることになるんだ?
ドーラ 私、学校に行ってた頃のことを思い出すの。よく笑ったものよ。その頃は、きれいだったのよ。散歩をしたり、夢をみたりして過ごしていたの。こんな軽率で、無頓着な私でも、愛してくれる?
カリャーエフ (ためらってから、非常に低い声で)そうだときみに言いたいのだがなあ。
Je meurs d’envie de te dire oui.
ドーラ (叫び声で)それなら、そうだと言ってよ、ねえ、もしそう思ってるのなら、もしそれがほんとの気持だったら。そうだと言って、正義の面前で、悲惨や、鎖でつながれた人民の前で。そうだと、お願い、そうだと言って、たとえ子供たちが苦しんでいても、絞首刑にかかる人たちや、鞭で打ち殺される人たちがいてもいいから・・・
カリャーエフ 黙れってば、ドーラ。
ドーラ いいえ、せめて一度だけでも、自分の心のままにすっかり話してしまわなければならないの。私は、あなたが、この私を、ドーラと呼んでくれるのを、不正に毒されたこの世界に中で何よりもまず、私の名前を呼んでくれるのを待ってるの・・・:
カリャーエフ (荒々しく)黙れっ。ぼくの心に浮ぶのは、きみのことばかりなんだ。だがもうすぐ、ぼくは震えることさえ許されなくなる。

この愛し合いながら、死への道を選ばねばならない二人の切ない愛がこの芝居の緊張を一層高めていきます。
それは、第五幕で、フロレンスキー神父から、処刑の時のカリャーエフの最後の様子を聞いてきたステパンにドーラが問いかけるシーンで最高潮に達します。

Fドーラ 彼の声の調子はどうだったの?
ステパン いつものようにキチンとしていて、きみの知っている高ぶった様子も、苛々した様子もあまりなかったそうだ。
ドーラ 彼は幸せそうだったの?
アネンコフ 気でも狂ったのか?
ドーラ そうよ、そうよ、きっと彼は幸せそうだったの。だって、自らを犠牲にする準備のためにこの世で幸せになることを拒否した彼が、死と同時に幸福を得られなかったとしたら不当すぎるわ。彼は幸せだったの。そして静かに処刑台へ歩いていったの、そうでしょう?
(処刑台上の状況の説明を聞いてドーラが絶望的に嘆くのを見て、彼らが沈黙し、アネンコフが涙すると・・・)
ドーラ 泣かないで。いや、いや! 泣いてはいけないの! 今日は正義が立証された日なの、分かってるでしょう。私たち反抗する者たちを証言するこの時に、何かが立ち上がるのよ。ヤネックはもう人殺しではないの。恐ろしい音! もう恐ろしい音で沢山、ほら彼は子供の頃の喜びに帰ったのよ。覚えている? 彼の笑い声を。彼は時々わけもなく笑ったわね。なんて彼は若かったのでしょう! 彼は今笑っているに違いないわ! そう、大地のほうを向いて笑っているのよ!
(このあと彼らはドーラの求めに応じて、彼女が次の機会に最初に爆弾を投げる役割を承知する)
ドーラ 私に爆弾を渡してくれるわね? 投げるわ。そして、それから、冷たい夜の中を・・・  (・・・)(涙を流しながら)ヤネック! 冷たい夜、そして同じ綱で! 今や、すべてが一層簡単になるのよ。

ドーラが、カリャーエフと同様に人民の敵に爆弾を投げることによって、カリャーエフとはじめて一体化できる悲壮な希望を表明するところで幕になります。
このように、彼らは、自らが正義のために生きる人間であって、この世では幸せにはなれないとまで、自らを追い詰めています。最終的にカリャーエフの勇気を認めたステパンも含めて、彼らは、自らの命を懸けて正義を実現しようと努めました。
こうした彼らの状況を、カミュは『手帖』に次のように記しています。

G「カリャーエフのようなテロリストがもつ偉大な純粋さは、彼にとって殺人が自殺に等しいことだ。一つの生命は一つの生命によって支払われる。この論法は間違っているが(奪われる生命は差し出される生命と相殺できるものではない)、尊敬すべきところがある。今日では、殺人は代理人によって行われている。誰も支払いをしない。」(『第五手帖』1947年)
そして、作者カミュはドーラに次のように語らせている。
H「(・・・)ステパンの話を聞いていると、怖くなるの。おそらくいつか私たちのことを口実にして人を殺し、自分たちの犠牲を払わないような連中が現れるのではないかと(・・・)」

つまり、目的のためには手段を選ばない手法が現実化すれば、他人を利用してでも自己目的を達成しようとする連中が出現することを彼女は恐れているわけですが、彼女の懸念は現実化するわけです。それが政治のレヴェルであって、やはりこの芝居の登場人物たちは、詩的世界、理想的世界の次元に生きる人たちであったわけです。
Pleiade版でこの作品のあとにつけられているLes meurtriers delicatesと題する小文には、脱獄を試みて、見つかった場合、相手が兵隊だったら殺さないが、将校だったら殺してもよいのか、という問題を提起しています。これはカリャーエフが馬車に大公とともに子供たちが乗っていたので爆弾を投げられなかった問題と同質のものです。兵隊は民衆の一人であるが、将校は支配階級だからというわけです。しかし、民衆の幸福のために圧制の権化である大公を標的とするのだから、彼以外の人びとに危害が及ばないようにするという潔癖な発想は、彼らを社会に安住させませんでした。この劇にボリス・アネンコフの名で登場するボリス・サヴィンコフは国外逃亡中に『あるテロリストの回想』あるいは邦訳の『テロリスト群像』を著し、ロシア革命後はいわば反革命軍に組みしたそうです。恐らく、彼は権力を把握したレーニンらが、旧帝政時代に匹敵するか、もしくはそれ以上の過酷な弾圧政策をとったことに共感を抱きえなかったのでしょう。革命的社会主義者たちは、まさに専制政治がもたらす閉塞状況に反対したのであって、批判を許さない独裁政治、専制政治は、右翼、左翼を問わず、人間の尊厳を貶めることになるわけで、それは、この若き革命的社会主義者たちには承認しがたいことでした。こうした極めて微妙かつ本質的な問題を、カミュはこの芝居で提起したわけです。
カミュが、この作品の構想を抱き始めたのは、1947年頃で、パリ解放直後の対独協力者(いわゆるCollabo)たちへの処罰を奨励していた時期から、モーリアックによる批判によって正義がどこまで不正を裁きうるかという根源的問題へと移行する時期でもありました。
ナチス・ドイツ占領下におけるさまざまの不正義、裏切り、密告等について、それを徹底的に批判しうる純粋正義がありうるか、という問題は、決して過去のものではなく、人間社会が存続する以上絶えず問い続けられるべき問題でしょう。たとえば、過酷な拷問に耐えかねて白状した場合もありましょうし、それと知らずにだまされて機密を漏らしたことだってあるかもしれません。イエスがオリーヴの山もしくはゲッセマネで祈っていたとき、眠ってしまった弟子たちに「心逸れど肉は弱し」と言って弟子たちを慰め諌めたイエスの言葉に表れているように、追い詰められたときの人間の弱さを無視してまで、他者を裁きうるかという、カミュの問題意識は、これ以後も『転落』『追放と王国』に到るまで持続します。
ここで、カリャーエフの人間性をよく表している牢獄の場面について触れておきます。
大公妃が、彼と苦しみを分かち合いたいと面会に来ます。しかし、彼は面会を拒否し、それでも話しかけてくる大公妃に、「自分は、ただ正義の行動をとっただけだ」と断言し、自分は殺人者ではなく、圧制を廃絶するべく圧制の実行者を消滅させたのだから、死刑になるのが当然だ、と言い放ちます。しかし、彼女は、それが殺された夫の大公が正義を語るときと同じ口調だと反論します。「彼(大公)は、《これは正義だ》と言ったものです。するとみんな黙らざるをえませんでした。彼は間違っていたのですね、恐らく。そしてあなたも・・・」と言い、彼に悔い改めるよう求めます。悔い改めると言うことは、彼が殺人という罪を犯したことを認めることになりますが、カリャーエフは自分の行為は殺人ではなく「革命」であり、「正義」だと主張し続けます。
このような問答が実際にあったかどうかは、『テロリスト群像』には記述がないので知る由もありませんが、人間社会にあっては、正義と言うものが、つねに相対的なものであって、パスカルのI「ピレネーの彼方の真理は、こちら側では誤謬である」(L.60-B.294)という一句が示しているように、人間の領域にあっては絶対的正義を主張することは危険なことなのかもしれません。
正義を実現するべき革命のために標的とする人物以外の犠牲が生じても仕方がない、と主張するステパンに対してカリャーエフは「きみの主張することの背後に、もしそれがいつか定着すれば、専制主義が表明されて、正しいことを行おうとするぼくを殺人者にしてしまうと思う」と反論し、さらに「人は正義によってのみ生きるのではない」とイエスの言葉(マタイIV−4;申命記VIII-3)を思わせる言葉を投げかけます。ここにカミュが、このようにイエスの影を投影することによって、真の正義とは何か、真の義人(正義の人)はイエスだけではないのか、と問いかけているようにさえ思われます。(この問題については最初に紹介しておきました)
さて、先日のアテネ座の上演のパンフレットに、「今日、不正に対する闘いはこれまで以上に必要である。これまで以上に、愛と正義が人類には不足している。」とありました。日本でも、政権与党の自民党の政治家ですら、自由な発言ができない状況になっているほど、日本において自由と正義は死に瀕している言っても過言ではないでしょう。
この作品が提示する問題は、革命だけの問題ではなく、あらゆる社会問題、人間関係に関わる問題についても、軽々に正義・不正義にかんする判断をしがたいことを示唆しています。こうしてみると、作者カミュが先に引用した「ギロチンに関する考察」の中で述べているように、
「生きるということは、少なくともこうしたことを認識することと、そしてわれわれの行為の総計に、われわれが世界に投じた悪をいくらかでも償うような善を少しでも加えることを可能にしてくれるのだ。」ということを確認しておく必要がありましょう。そのためには、拱手傍観して無為に過ごすのではなく、カミュに倣って謙虚にしかし勇気を持って権力の不正にNonと言い、不正な裁きにNonと言い続けるべき、つまりカミュの言う反抗をし続けるべきなのかもしれませんが、いかがでしょうか?