【フランスの巡礼地G】 ベルナデッタの生家(ルルド) La Maison Natale de Bernadette (Lourdes) ボリーの水車小屋(ボリーは昔の持ち主の名前)はベルナデッタの幸せな10年間(1844-1854)の舞台である。彼女はここで両親、兄弟・姉妹、また祖母や叔父伯母、従兄弟たちと一緒に過ごした。 受付ホール
ここでは1850年当時のルルドの人々、市民・軍人・聖職者社会(上流階級)と、粉引き・石工・農民・あらゆる類の職人などの慎ましい人々(下層階級)を写真で見ることが出来る。 紹介されている二家族は、ボリーの水車小屋の主人カステロ家とその雇用者スビルー家。 この二家族を一つに結んだのは一組の恋愛結婚であった。長女のベルナルドを娶るはずのフランソワは、年齢差にもかかわらずルイーズを愛した。 祈り、他者に開かれ、自分よりもさらに貧しい人に施すキリスト者家族である。 生家 二階: ベルナデッタはこの部屋で1844年1月7日に生まれた。洗礼は翌々日(1月9日)、両親の結婚記念日であった。 もうひとつの部屋には、スビルー一家のこの小屋での生活の様子、冠婚葬祭、仕事、食事そして祈りを物語る版画が展示されている。 一階: 台所、居間、何をするのもこの部屋で、晩の祈りが捧げられたのもここであった。 製粉機はLapacca川が石臼を回していたベルナデッタ時代のものである。 ベルナデッタは生まれてから10年間、ここで優しくて敬虔な家族の静かな幸せのうちに過ごす。父フランソワ・スビルーと母カステロ・ルイーズは1843年1月9日に婚姻の秘跡で結ばれた恋愛結婚であった。この愛情に満ちた雰囲気の中にベルナデッタは勇気と精神的バランスの源を見出している。勇気と精神のバランス、これは後に人生の厳しさに直面した彼女の性格の特徴となる。というのは、10年の間この家族がそれなりに裕福であったにしろ、1853年以降は大変な困難に見舞われることになるからである。 蒸気製粉機との競争、この地方の早魃、更には貧しい人々への寛大さと、払いの悪い連中に対する「優柔不断な態度」が家内事業を危機に陥らせる。 1854年春、家賃が払えなくなって、スビルー一家は「幸せの水車小屋」を後にし、割安な製粉所へ移る。 1855年、コレラの流行により、ルルドで5週間に38人の死者が出る。ベルナデッタも病み、以来重い喘息に悩むことになる。育ち盛りの子供にとっては辛い障害である。そして更に、もっと粗末な粉挽き小屋、ルルドの外のArcizacに発たねばならなかった。 1856年、飢饉が地方を襲った。政府は無料で粉を配給し、粉挽きの主人は破産、職を探すがしばしば失業状態となる。幼くして死んだ二人を含め6人の子供がいた母親も家の外に働きに出かけねばならなくなった。居酒屋の女給となったベルナデッタには、学校も公教要理もなかった。 1857年、スビルー一家はもはや家賃も払えなくなる。一家は町の使われなくなった古い牢獄を無料の逃れ場として見出した。(Rue des Petits-Fossés の「牢獄(カショ)」を是非ご見学いただきたい。) 3月27日、フランソワ・スビルーが粉泥棒と間違われ、逮捕されることになるのはここである。彼は8日間投獄された。11月、ベルナデッタは「口減らし」のためバルトレスBartrèsの農家に奉公に出され、1858年1月、御出現の3週間前までをそこで過ごした。 ベルナデッタがこれら社会的身分の低下や一連の排斥を乗り越えることができたのは、家族(父母、兄弟・姉妹をはじめ代父母、おばや従兄弟たち)の内に堅実で調和のとれた場、運命の仕打ちよりも愛が優る家庭を見出していたからである。 (解説しおり試訳) ■開館時間: 夏期(4月〜10月) 9時〜12時、14時〜18時30分 冬期(11月〜3月) 15時〜17時
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