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【フランスの巡礼地K】 聖ビンセンシオの宣教会本部聖堂 Chapelle des Prêtres et des Frères de la Congrégation de la Mission Congrégation de la Mission MAISON-MERE des Lazaristes 95 rue de Sèvres, 75006 PARIS, France Tél.: 01-45-49-84-84 Fax: 01-45-49-84-85 ■聖ビンセンシオ・ア・パウロ 1581年プイPouy村に生まれたビンセンシオVincent Depaulは、幼い頃から貧しい人たちの間で生活し、その生活条件を体験していた。1600年に司祭に叙階されると、しばらくの間は生まれの貧しさから逃れようとした。けれども、霊的指導者たちの導きによって、より高い聖性に達するという関心ごとに急かされているように感じるようになる。人生のさまざまな出来事を通じて、神の摂理は彼を、貧しき者の救いに生涯を捧げるという固い決意に向かわせた。 ビンセンシオは、ガンヌGanneで勤めている間に、貧しい人たちに福音を伝えることが差し迫った緊急課題であると理解した。自身が証言しているように1617年1月25日、フオルヴィルFollevilleでの出来事は、彼の召命と宣教の出発点となった。ついに同年8月、シャティヨン・レ・ドンブChâtillon-les-Dombesで、全く金に困っている病人を救うための「愛徳会」を組織すると、ビンセンシオは、貧しい人に福音を伝えることと彼らへの奉仕の間には密接な関係があると認め、これを主張したのである。 徐々に彼の霊的体験は念祷と、貧しき者のなかにおられるキリストへの奉仕のうちに形を取っていく。更には、貧しい人に福音を告げるため御父から遣わされたキリストのイメージが、ビンセンシオの生活と使徒的活動の中心となる。 当時の世界と社会の必要に心を配り、それを神と貧しい人たちのためにいつも激しく燃えている愛の光で読むことを覚えた。貧しき者は、あらゆる種類の困難によって虐げられているのである。ビンセンシオはすべての苦悩を和らげるために呼ばれていると感じていた。 諸活動の中では宣教がいつも最優先であった。1625年4月17日、彼は最初の同志と共に、会の規約に署名する。これによって田舎の貧しい人たちの救いのために生涯をささげる約束をしたのである。また叙階志願者のための霊操も考案した。彼らはこうして教会のために良き司牧者となる準備に努めたのであった。 あらゆる苦悩によりよく対処するため、ビンセンシオは富のあるなし、力のあるなしに関わらず、すべての人に呼びかけた。また、あらゆる手段を講じて、彼らにキリストの特別の姿である貧しき者の意味を、伝えようと努力した。それは彼らを直接であれ間接であれ、恵まれない人々を助けるのに関わらせるためである。今日、この自発的で寛大な献身行為は、愛徳姉妹会や聖ビンセンシオの組、聖ビンセンシオ・ア・パウロ会、マリアの青年会他の諸共同体と個人によって受け入れられ、引き継がれている。 ビンセンシオの貧しい人に対する熱意は外国宣教に新しい重要性を与えた。1648年最初のラザリスト会員がマダガスカルに派遣されている。 1660年9月27日に永眠するまでに、ビンセンシオの愛情を受けた人は数え切れない。 教皇クレメンスXII世は1737年6月16日、彼を聖人の列に加えた。祝日は命日にあたる9月27日である。 ■聖堂 入口に立つと、聖ビンセンシオ・ア・パウロの遺体を納めた聖遺物櫃に目を引かれる。聖遺物に敬意を表すためには、主祭壇脇から簡単に登れるようになっている。骨格は保存されており、顔と手がロウで覆われている。心臓は取り出されて、現在 Rue du Bac 140番地の愛徳姉妹会聖堂に安置されている。遺体は祭服に包まれ、両手の間には十字架が握らされているが、この十字架はおそらくルイ十三世の臨終に立ち会う際、聖ビンセンシオが持っていたものである。 フランス革命の後、1817年、この宣教会の司祭たちはサン・ラザールSaint-Lazare修道院(現在の北駅と東駅の近くにあった)に替えてRue de Sèvres 95番地を本部修道院とした。パリの人々は聖ビンセンシオ・ア・パウロを大変慕っていたので、聖遺物櫃のために金を出し合い、当時のパリの大司教は金細工師オディオOdiotに命じてこれを作らせ、1830年4月25日この聖堂に安置した。聖遺物櫃は長さ2,25メートル、幅65センチ、真ん中の一番高いところで高さ1,05メートルの大きさである。上部の群像彫刻は、信仰・希望・愛の紋を掲げた4人の天使に伴われて天に昇る聖ビンセンシオを表現している。 この聖堂には他に、3人の宣教会会員の記念が残されている。聖ジャン・ガブリエル・ペルボワルSt. Jean-Gabriel Perboyre(1840年没)と福者フランソワ・レジス・クレBienheureux François-Régis Clet(1820年没)はいずれも中国の殉教者で、二人の墓は側廊にある。また元総長、エティエンヌ神父Père Etienneの墓石が中央通路に据えられている。非常に多くの宣教師たちがこの聖堂からイエス・キリストの福音を携え、遠隔の地へと旅立っていった。 各ステンドグラスの中央にある二つのメダイヨン(楕円形の枠)には、聖ビンセンシオの生涯と業績が描かれている。このステンドグラスは1864年の作と思われる。カヴァイエ・コルCavaillé-Collがオルガンの製作を終えたのもこの年である。階上席では、画家アングルIngresの弟子であったフランソア修道士Frère François(宣教会修道士)の手になる一連の絵画が、イエスと聖母マリアの生涯を描いている。 左側廊の聖母の祭壇に聖体を安置するのが慣習となっている。右側廊の祭壇は聖ヨゼフに捧げられたものである。その左側の群像は「我等の主の聖なる憂い」で、オリーブ山でのイエス、天使に勇気付けられるイエスを表している。 聖ビンセンシオ・ア・パウロ聖堂は、聖ビンセンシオの宣教会本部聖堂である。各館は現在、諸活動のために用いられている。 - 世界中から休暇に帰るラザリスト宣教師の受入れ - フランスのラザリスト神学校 - 高齢宣教師の隠居施設 - 信徒および司祭の寮 - グループ活動のため、あるいは宗教的目的の集いのための会議室 - ビンセンシオについての情報および考察センター 聖堂は主日・週日のミサのため一般に開放されている。また祈りと内省の場でもある。 ■典礼時間 ミサ : 主日8時30分、11時 週日7時15分 ゆるしの秘跡 : 土曜日17時〜18時 (案内のしおり抄訳)
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