キリストの聖体

ヨハネによる福音 6・51〜58
2005年5月29日


父と息子が砂漠を歩いていました。
「お父さん、何時になったら目的地に着くんですか?」
頭の上にある太陽を眺めながら息子が尋ねました。
「息子よ、そんな事より前をしっかり見て歩くんだ。」 父は地図を広げながら息子に言いました。息子はだんだん不安になってきました。そして磁石ばかり見下ろしては方向を確認している父に腹が立ってきました。
「お父さん、もう少し早く歩いて、急ぎましょう。」
その時、父が急に言いました。
「息子よ、こっちだ。間違った方向へ歩いて来てしまった。」
二人は方向を変え、数日に目的地に着きました。
その番、父は息子を呼びました。
「息子よ、時間はそれほど重要な事ではないんだ。それよりももっと重要な事は方向だということを忘れてはいけないよ。もう少しのところで私たちは永遠に砂漠で迷ってしまうところだった。」息子は未だに砂漠のどこかで迷い続けている自分の姿を思い浮かべて、ぞっとしました。
父は自分が一番大切にしている磁石を息子に送りました。
「ありがとう。お父さん。これは僕が自分で方向を定められるようになるまで、お父さんが預かってください。」

私たちの暮らしの中で、何が大切で、何が尊いことかを気づかせてくれる話です。

マナは、イスラエルの民が出エジプトの旅でモーセに対して不満をぶつけていた時、神が下さったものです。何が大切であるかを知らない姿は信仰に忠実ではなく、忍耐を知らない。今日の私たちと通じるものがあります。にもかかわらず、神は彼らを救おうとしてマナを下さいました。このマナが新約では命のパンへと続きます。
旧約のマナを食べた先祖たちは死にましたが、命のパンを食べる人々は永遠に生きるとイエス様はおしゃいます。本当に大切で尊いことは、現世的な命や外的な現実ではなく、まさに永遠の命を得ることのできる、命のパンを頂くことなのです。

今日もイエス様は永遠の命をくださろうと私たちを招待してくださいました。
命のパンをいただく喜びをくださった神様に感謝をささげ、その喜びを隣人と共に分かち合いましょう。
これこそが命のパンをくださる主への私たちからの大切な報いではないでしょうか?

アーメン

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