待降節第3主日

ヨハネによる福音 1・6〜8 19〜28
2005年12月11日


私が神学校で勉強していたときに習ったことの中で今もよく覚えていることばがあります。
ある日、白髪の教授神父様が授業時間に授業はされず、黒板にこう書かれました。

「信仰は教授されるものではなく、伝染するものだ」

神学生たちは神学校で主に神学科目と哲学科目を習います。
神学博士を信仰博士とは言いません。
それは、信仰を深めるうえで教理の勉強は役に立ちますが、伝染しなければ教理はただの学問として終わってしまうからです。頭で習った神学が、わたしたちの体にしみこんで正しい信仰へと進むためには、伝染しなければならないということなのです。では、どうすれば信仰に伝染するのでしょうか。

信仰は頭でするものではなく、心と体でするものです。
頭で習ったカトリックの教理を心と体で実践しなければ、わたしたちは信仰に伝染することができません。主日にはミサを通して神に感謝し、また自分の過ちを悔い改めて必要な恵みを願います。わたしたちはこのように習ったことを忘れず、真心でミサにあずかり、実践に移してこそ、初めて信仰に伝染することができるのです。
神がわたしたちの心よりももっと広い方であるということを、わたしたちは「放蕩息子」のたとえを通して知っています。しかし、せっかく習っても、わたしたち自身が隣人を広い心で愛し理解しようとしなければ、神の愛に伝染しているとは言えないのです。

わたしたちはもうすぐイエスさまのご降誕を迎えます。
高いところにおられた方が低いところに降りて来られたというのがクリスマスの神秘です。謙遜して低くなることで初めて互いの交わりと喜びが始まるというのがクリスマスの神秘です。イエスさまがわたしたちに伝えてくださった福音を、自分の周りの人々に少しずつ少しずつ伝えて分かち合いながら暮らすことができれば、わたしたちの信仰は正しく伝染していくのです。

信仰は教授するものではなく、伝染するものなのです。

アーメン

back home next