ザビエルとキリシタン


    ドベルグ美那子

     

ザビエルの死
(Eglise St.Ignace)

今年は日本開教450年に当る。キリスト教をもたらしたのはイエズス会創立者の一人、フランシスコ・ザビエルFrancois Xavier(1506-52)で、1549年8月15日聖母被昇天の祝日に鹿児島に到着した。この「東洋の使徒」とその業績については幾多の著書があり、彼の書簡集も邦訳されているので、ここでは改めて繰り返さない。日本ではすでに昨年末からいろいろな記念行事が行われている。
   ザビエルのまいたカトリックの種子はこの地に芽生え、多くの困難に出会いながらも、やがて「キリシタンの世紀」といわれる一時期を展開するまでに成長していった。その後禁教・迫害の受難時代が続き、鎖国体制に入った日本では絶滅したかにみえたが、幕末開国後来日したパリ外国宣教会の司祭、プチジャンBernard Thardee Petitjean(1829-84)は、新設の長崎大浦天主堂(通称ふらんす寺)を訪ねてきた浦上村の潜伏キリシタンと邂逅する(1865年)。「キリシタンの復活」と呼ばれる、教会史上特筆すべきこの事件は、ザビエル時代のキリシタンの信仰の灯が300年余縷々として継続してきたことを証明するものである。
   このようにしてキリシタンは復活した。それでは彼らの先祖たちは布教初期にどのように聖週間を過し「主の復活」を祝ったのであろうか。因みに、私たちは去る4月の初め、Dunoyer師と嘉松師に伴われてルルドへ巡礼し、かの地で聖週間の後半と復活祭を体験してきたばかりである。その記憶もまだ新しいこの機会に、キリシタン時代の復活祭を想起してみたい。幸いなことにこれに関する貴重な資料が残っている。それはザビエルや彼の後継者たちが日本からヨーロッパやインド(イエズス会の東インド管区布教庁はインドのゴアにあった)に書き送った数多くの書簡や報告書である。
   ポルトガルのエボラで出版された「日本イエズス会士書簡集」(1598年版)には、山口(1553年)、豊後(1557年と1561年)、高槻(1581年)、臼杵(1582年)の聖週間や復活祭をかなり詳しく報告した書簡が収められている。何れも興味深いものだが、その中から、1561年10月8日、フェルナンデス修道士Joao Fernandesが豊後からイエズス会修道士らに宛てた書簡を紹介しよう。
    「…(四旬節の)暗黒の日の数日前、ドアルテ・ダ・シルヴァ修道士Duarte da Silvaは少年たちに一つずつ持たせるために受難の玄義を絵にして、その意味を日本語の韻文にした。木曜日には教会にローマ風のアーチを備え付け、各アーチの上にこれらの絵を掲げ、その下に日本語とポルトガル語の説明をつけた。子供たちは皆黒い服を着て頭には黒と黄色の冠をかぶり、各々一つの玄義の絵を持ち行列に加わった。十字架を中央にして、聖体とキリシタンで満ちた教会の前まで進むと、十字架を掲げた者が涙を流しつつ玄義を説明した。少年たちは順番に絵の意味を述べた後、聖体の前で対話を行った。彼らはミゼレレ(メイ・デウス)Miserere mei Domine(主よ憐れみ給え)を一回唱え苦行を行ったあと(イエズス会士がたてた慈善)病院の前にある大きな十字架まで行進し、キリシタンたちは皆泣きながらそのあとに続いた。そこで又同じことを行い、多くの涙を流した。正午を過ぎるとキリシタンたちは(聖体を収めた)墓の前で武装して(護り)、病院の地所の門を閉じて苦行を長時間続けた。(中略)
  夜の十時になると、キリストが十字架にかけられた次第と、第一、第二、第三の言葉について説教があり、これが二時間続いた。そのあとキリストの十字架像を携えて行列し、司祭と修道士たちは白衣をまとい、二本の大きな松明と二本のローソクが十字架のそばを進んだ。日本人は十字架を見るとすぐ熱心に苦行を始め、行列が往復する間これを続けた。(中略)
   金曜日の朝、ミサの諸儀式の時、人が多かったので二基の十字架を据え、そのあと聖体を取り出したが、皆は再び多くの涙を流した。彼らは悲しみながら家へ帰っていった。土曜日の朝、司祭は復活祭のローソクを祝福し、予言と泉の祝福を行った。その泉は工夫して水を一つの場所に引き、そこから四つの川が流れるように細工し、地上の楽園の四つの川を表した。連祷のあと、立派に飾りつけた聖堂の前面に黒幕をかけ、Gloria in excelsis(栄光唱)を始めると同時に幕を落とし、大小の鐘を鳴らしたので、参加者一同は喜んだ。ミサのあと彼らは復活祭の準備のため立ち去った。
   復活祭の日、夜明けの二時間前から信者たちは教会に詰めかけた。玄義の絵を運ぶ少年たちは白衣をまとい、バラやその他の花冠をかぶっていた。(アルメイダ修道士Luis de Almeidaが巧みに作った)墓には、天使が一人頭に、他の天使が足の所にいて、周囲には青々とした木が植えられていた。このようにしてミサが行われた。これがすむと大きな聖体を聖別した。夜が明けると早速天蓋を携え、行列して出向いた。少年たちは前方を進み、各々金で飾った玄義の絵を持っていた。彼らは三つの歌を歌った。一人がディク・ノビス・マリアDic nobis Maria(マリアよ我らに語れ)と歌うと、他の二人の少年がマリア・マダネラMaria Madanela(マグダラのマリア)を応唱した。そのあと、アレルヤAlleluya、最後にラウダテLaudate Dominum omnes gentes(主を讃めたたえよ)を歌った。このようにして十字架の周囲を三周し、教会に戻って皆聖体を受けた。そのあとマグダラのマリアに扮した者が墓の前に出て、ペトロとヨハネが歌で彼女に「途中で何を見たか」と聞くと、彼女はそれに続く歌詞で答え、墓と聖骸布(suaire)を示した。次に少年たちが玄義の絵を携えて日本語で金曜日のキリストの受難は主に従う者一同の安楽と栄光の原因であると語り、十字架から始めて(ユダの)銀30枚で終った。(中略)彼らは感動して落涙した…」    
   まことに目の前に彷彿とさせる描写ではないか。
  ここに度々出てくる苦行とは鞭打ちのことで、多くは、縄の束で作られた鞭で自分の背中を打つことである。キリシタンは屡々血が流れるまで激しく打った。その道具も行為もヂシピリナ(discipline)又は、おテンペンシャ(penitence)と呼んだ。又キリシタンたちは多くの涙(悲しみと喜び)を流したと記されている。涙は告白と同様に、贖罪の対象ともいえよう。彼らの敬虔な姿は宣教師を感動させ、平戸から来た一人のキリシタンは国元の同僚に眞のキリシタンを見たいなら豊後に来るようにと書き送った。
    豊後のキリシタンは当時素朴な庶民や貧民が多かったが、信仰の質においては上に述べられた通りである。キリシタン保護者の領主、大友宗麟が受洗して、ザビエルにあやかり教名をフランシスコとしたのは、それから18年後であった。彼の希望により1582年、臼杵の教会で盛大に行われた聖週間と復活祭には、紙で作られたさまざまな型の燈篭の行列や花火(仕掛けと打ち上げ)、舞も加わった。(列席者の)人数を増やして祭礼を立派にするため(政庁のあった)府内から家臣一同が呼びよせられ、参加者が多すぎて教会が小さく見えた、と年報の中でルイス・フロイスLuis Froisは述べている。この時は貴人の改宗者たちが多く、キリシタン層に変化がみられ、目を楽しませ、驚かせる大がかりな祭典となったことは注目すべきであろう。
   従来説教の中で語られていた受難の玄義が、1561年から絵で説明されるようになり、日本の聖週間の伝統となったようである。十字架の道ゆきChemin de Croixに当るものであろうか。私たちはルルドに着いた朝これを行った。苦行の鞭打ちの代りに、一つ一つの玄義を黙想し、主の祈りと天使祝詞を唱えながら進んだ。昔も今もその内容と敬虔さの点では変らない。ラテン語の栄光唱グロリヤや主の讃歌ラウダテを私たちは歌った。400年前キリシタンの少年たちが同じ歌を歌ったことを思うと、感慨にたえないものがある。
   彼らの聖週間や復活祭の祭儀に、演劇的要素が多くみられるのは、中世ヨーロッパのキリスト教教会で行われた一般信徒教育の伝統によるものであろう。即ち副典礼para liturgieといわれるもので、視覚・聴覚などの感覚に訴える即物的なものにより、わかりやすく教理を教える方法である。布教の補助的側面をなすものである。この方法は現在でもキリストの受難劇 Mystere de la Passionなどに残っている。ルルドの地下聖堂で私たちはこの劇が中央祭壇の前で行われるのを見た。
   又見逃してならないもう一つの点は、祭儀に参加したキリシタン少年たちが果たした役割である。彼らは必要不可欠な脇役であった。彼らを熱心に指導したのは司祭や修道士たちである。豊後の教会にはオルガンが備えつけられ、少年合唱隊もあったという。教会における子供の教育は彼らの人間形成の上で極めて大切であり、彼らを通して周囲の社会へ間接的に福音の伝播も行われ、日本ではよい成果を収めた。このことは今日的課題にもつながる。
   新しい世紀を来年に控え、改めてザビエルの始めた日本キリスト教会の歴史を回顧し、その中から有用な教訓を学びとり、将来の発展のための糧としたいものである。

 

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