9月12日は庭園祭りFete des jardins。パリ外国宣教会M.E.P.の庭もこの日は公開されて、約2万人の人たちが訪れた。同会の要請で、私たちパリ日本人カトリックセンターの生け花教室グループも参加して、野外に二つのテントを張り、それぞれの作品34点を展示した。テーマは「秋の実り」。季節の花の他、野山の栗の枝や赤い実をつけた野ばらのつる、野の草花も交えオブジェ式の大きなコンポジションから小さいコップのミニ生け花まで、自然と人間の融和を謳ったもので、ここ一年余の生け花グループの活動の実りでもあった。M.E.P.の後援や有志の協力を得て無事にこの行事を終了することができた。その間のいきさつや詳細については、センター日記や準備中のアルバムを参照されたい。
M.E.P.の庭はその起源を17世紀に遡る。もと菜園だったが次第に拡張整備され、ほぼ70年の間に現在の規模となった。設計図は有名なLenotre(1613−1700.ベルサイユ宮殿の造園家)の弟子によるもので、フランス式庭園である。創設当初から今日に至るまで大きな改変はなく、基本的には原型をとどめているという。
さて、この庭には中世のタペストリーのように数多くの美しい花が植えられているが、中でもバラは種類が多く注目に値する。それらは歴代にわたり外国、とくに極東に派遣された宣教師たちが布教の傍ら現地で集めて送ったり持ち帰ったりしたものの後裔である。19世紀にはパリやロンドンの博物館と提携して、中国や日本などアジア諸国の植物採集が本格的に行われた。宣教師たちは又プラント・ハンターでもあった。その努力が実り、今日M.E.P.の誇るバラ園の前身ともいうべきバラ植物栽培園が誕生したのである。
もともとバラは刺のある茨(いばら)の種類の植物で、西アジアから南ヨーロッパにかけて野生のものが分布し、その自然交雑種も多く、ギリシャ・ローマ時代から既に知られていて『植物誌』や詩にも登場する。7世紀頃イスラムのヨーロッパ侵入に伴い、直立性潅木のバラが西アジアから入ってきた。その後ルネサンス期からは、つる状や半つる状の種類のバラがアジア各地や中国(西部や西南部に自生)から導入され、18・19世紀に至る。
日本には野生のバラが万葉集の頃からあったらしく、防人(さきもり)の歌に出てくる「道の辺の荊(うまら)」がそれとみなされ、文献上の初見である。『古今和歌集』『枕草子』『源氏物語』には「さうび」(そうび)の名で現われ、中国渡来のコウシンバラを指すと考えられる。漢字では薔薇を当てるが、今日ではバラと読むのが普通である。いばら(茨)からきたのだろうか。中国では又バラの花を
とも書く。
ここから、連想されるのは、中国天主教(キリスト教)で用いられた
でロザリオの祈りの意訳である。ロザリオはポルトガル語Rosarioで、バラの花冠を意味する。カトリックでは祈りを数える念珠、つまり信心用具のことである。日本のキリシタン時代には「ろざりよ」と原語をそのまま用いたが、19世紀の再布教時代に来日したM.E.P.のPetitjean師は、その編著
(1869年長崎刊)でロザリオに四字を当てた。ロザリオは又コンタツというが、これもポルトガル語contas(数える)からきている。その構成は10個の小珠と1個の大珠の一連を5連鎖でつなぎ、それに小珠3個、大珠2個を加え計60個の珠に十字架をつけたもので聖母マリアの生涯の年数に一致する。
ロザリオの祈りは聖ドミニコが聖母マリアから啓示を受けこの信心業を始めたといわれ、図像では跪いた聖ドミニコが幼子イエスを抱いた聖母マリアからロザリオを受けとる姿で表現される。聖母に捧げられたこのロザリオの祈りは当然ドミニコ会で盛んだったが、在日イエズス会も「ロザリオの15の観念」の祈りを刊行し、その詳しい手引書も印刷している。いわゆるキリシタン版といわれる出版物である。ドミニコ会の来日後は信徒の講組織「ロザリオの組」もできた。マニラではローマ字日本語の「ロザリヨの記録」(1622年)、「ロザリヨの経」(1623年)が出版された。後者がのちにPetitjean本の底本となっている。
高槻発見のキリシタン遺物「ロザリオの十五玄義図」はイエズス会系の画家(17世紀)による聖画で、中央に大きく聖母子像が描かれ、聖母は右手に白いバラを持っている。この聖母とバラの図像は更に古い。
中世末から近世初期にかけて、マリア信心と共に象徴的モチーフの多くの図像が作られた。その一つが「楽園の聖母」で周辺に花、特にバラが描かれる。中でも著名なのはドイツ派画家の作「マドンナとバラの垣根」(15世紀)で、バラの花冠をいただき赤いバラの垣根を背に坐った聖母が、左手に開かれた聖書を持ち、右手で白いバラを幼子イエスにさしのべている。キリスト教図像では、バラはすべての花の中の花、花の女王とされ、白百合と同じように純潔の象徴で聖母マリアと結びつく。中世には処女にのみバラの花冠が許されていた。バラは又、愛(聖なる愛)の象徴である。純潔と愛の象徴、聖母マリアは航海者たちの保護者でもあった。生還した海上遭難者が奉献した絵馬ex-votoには、しばしば、空に出現する聖母子が描かれている。M.E.P.の庭の奥には小さな祈祷所があり(1844年に作られたもの)、海外派遣の宣教師たちが出ていく度に、セミナリヨの学生たちは毎晩ここに集まって1ヶ月間彼らのために祈ったという。
このように見てくると、M.E.P.の庭のバラはロザリオに、そして聖母マリアへ、更には祈りに昇華する。その祈りは今もなお静かに続いているようだ。