ローマ世界青年大会に参加して
援助修道会 林 義子 Casola di Caserta という山の上の町に向かう青年たち
「青年」という世代からは遠く離れている私が同伴者という立場でこの大会に参加できたことを心から感謝しています。この大会で私の心に残っていることは数々ありますが、その中の一つをみなさまに分かち合いたいと思います。 1997年の暑い夏、パリにあるロンシャン競馬場は100万近い若者に埋め尽くされました。その熱気と情熱がまだ記憶に新しいところに、今回は場所を変えて、ローマ郊外トール・ヴェルガ−タ大学の考えられないほど広大なキャンパスで、2倍近い若者達によって、同じような風景が繰り広げられました。 そこでどのようなプログラムがあったかは、すでにマスコミを通してご存知と思いますが、私は個人として二つの違った現実をそこで見た、そして出会ったように思います。つまり、若者に大変な人気のあるローマ法王−むしろパパさまと呼んだ方が近い方−を中心に、世界160カ国から集まった若者達が「ヴィーヴァパパ」と叫び、パパ・モビールと呼ばれる車から手を振る教皇に涙をためて歓迎している若者達の風景。しかし、それだけではなく、あの場所には、200万人の違った顔があり、まったくと言っていいほど違った環境のなかで、何を大切にして生きて行ったらよいのか、何をもっとも大切なものとして自分は選びたいのか、何に価値を置いて生きようとしているのかを真剣に探し続けている一人一人の青年の姿、一人一人の違った若者が集まっている風景でした。 この二つの異なった姿を前にして、教皇も司教方もなんと優しく語り掛けていたことでしょう!! 「もう夜の11時になってしまった。私はあなたたちに長く話し過ぎたかもしれない。ところで今どうしようか?」このような口振りの教皇はとても200万人の聴衆を前に話しているとは思えない独特な温かさを若者達に感じさせることができる方です。 若者達はただちに、「もっともっと」と叫びます。この状況は各言語別に行われた司教様がたによるカテケージスでも同じことでした。ご自分が神学生としてこのまま司祭職への道を続けるべきかいなかを迷った時のことを、単純率直に話されるのを聴いていた多くの若者たちは、その後次から次へと自分が日ごろ抱いている質問を自由に表現していました。その場での雰囲気は、教皇様とともに過ごしたあの土曜日の夜の雰囲気に共通するものがあったと思います。 しかし、真剣に「自分探し」をしているこのような姿は、ローマ大会の1週間、またはその前後に、イタリア各地で企画されたさまざまなプログラムや巡礼の間、そのすべての瞬間にあったのではないでしょうか? 小さいグループでの分かち合いは勿論のこと、汗をかきかき歩いた巡礼の道々で、食事の間に、違った国の青年たちとの出会いで、床に寝袋を敷いて隣の人と話し合っている時に....。この深い問いかけ、その探求、その迷い、果てしない旅にも思えるその道のりを彼らとともにしながら、私もまた過ぎ去った自分の青年時代を思い、深い感慨を覚えました。 今、この状況をもう一度思い出して、心に蘇る言葉は、教皇様があの時に語られた言葉です。「人生の中で今皆さんが生きている時期は、あなたたちにある種の決定を要求します。(中略)しかし、社会の中で、「何をする」かを問う前に、「誰」に向かって前進していこうか、「誰」について行こうか、「誰」に自分の人生を託そうか、という決定することはもっとも大切なことです。」 今回の大会のテーマはヨハネ福音書の冒頭、「初めにみことばがあった。みことばは神とともにあった。」でしたが、教皇様はその後の部分も引用されました。「みことばの中にいのちがあった。いのちは人間を照らす光であった。光は闇の中で輝いている。」そうして「私達のところに来られたイエスが、いつもあなたがたとともに歩いておられる。そのキリストとしっかりと結びついて歩いて下さい」と力を込めて言っておられたことを思い出します。 あそこに集まっていた青年たちの中には、コソボでの戦争に巻き込まれた若者もいましたし、アフリカの絶え間ない民族紛争に疲れている若者達もいました。長い間信仰の自由が与えられていなかった国々から来ている人たちもいましたし、経済的には恵まれていても、ありあまる物の中で、何を大切に生きて行こうとしているのかと問われている国々からの若者もいました。日本から参加した若者達も家族のこと、学校のこと、近い未来にどのように社会人として参加していくのかを問い掛けられ、その答えを探している姿に接することができました。 ともすると闇の中で先が見えなくなってしまいそうな今の社会、今の世界の中で、あの一人一人の顔を思い出し、またあそこに参加することのできなかった多くの若者達のことを考えながら、教皇様の響き亙るような声でおっしゃったみことばの一つが今でも私の耳に響いています。
「主よ、誰のところに行きましょう。 あなたこそ永遠のいのちの言葉を持っておられます。」
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