ローマに生きる
ヨーロッパ社会は鍵文化の社会だとよく言われます。どこに行くにも、どこに入るにも、実にたくさんの鍵が必要です。バチカンの仕事を終え、夕方、修道院に帰る時、私も自分の部屋にたどり着くまでに少なくとも四つの鍵が必要です。修道院の大門を入るための「鍵」、そして次に修道院の外玄関の「鍵」、内玄関の「鍵」、そして最後に自分の部屋の「鍵」。車やバイクで外出の時もまた「鍵」が必要とされます。もし今、余分な「鍵」を全部処分して一つだけ選べといわれたら、一体どんな「鍵」を選びとったらいいでしょう。 私がどんなことをしても選びとるのは、きっと「私が私であるという権利」「私権」(わたくしけん)という「鍵」だと思います。「私が私であること」それは「私は他人ではない」ということです。「私権」という「鍵」は、この最も基本的な事実をはっきりと認めるための「鍵」なのです。それは「個人の確立」と「共生」のための「鍵」であり、「自己決定権」と呼ぶこともできるでしょう。 それぞれの生き方とそれぞれの思想を認め合う「鍵」、多様な生き方を受け入れあうための「鍵」なのです。すべての制度やすべての常識、すべての既存の価値観を今一度この「私権」という「鍵」で開け放してみると世界の風景は随分と変わって見えることと思いますが、過不足のない「私権」の確立こそ、行き過ぎた自意識とエゴイズムからの解放をもたらすものです。 どこに行こうと、表面的にどこに属そうと、それぞれが「私権」を絶対にあけ渡さず、さらにそれを成熟させること、そうすれば国籍も人権も性別も年齢もそれぞれの状況の「違い」も、また、いわれない差別や偏見からも、やがては解き放たれていくことでしょう。 「私権」「私が私であるという権利」は、また、私たち一人ひとりが物ではなくペルソナであることを意味します。アクイナスの聖トマスはこのペルソナを、「絶対独立性」であると定義しています。すなわち、私はあくまで私であって他の誰かと混合されないということです。それはまさしく私が私であるというはっきりした意識を持っていて初めて他の人が私ではないこと、私が多くのあなた(他の人)に囲まれて存在していることを理解するということでもあります。私とはまったく「違う」絶対独立性(ペルソナ)である「あなたがた」に囲まれている自分を意識するということです。 もし私たち一人ひとりが本当に自分が自分であることを理解し、自分が自分であることを生きることができるなら、この世界から理不尽な差別や偏見、不寛容は姿を消すことでしょう。なぜなら、私が私であるなら、私でないあなた(他人)が私と同じでないことは当然すぎるほど当然だ、私とはまったくちがう考え方、見方、感じ方をする人々いて当然だ、と理解するからです。いろいろな肌の色、異なる髪の色、わけのわからない種々の言葉を話す多くの人々が共存、共生しているこの町を歩きながら私はしばしば「自分が自分であって、他人は自分でない」ことをひしひしと感じさせてくれるこの町に生きることの幸せをかみしめています。
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