全ての命について

 今私は生きています、そして貴方方も!! 

小さな命がこの世に生を受け、生きている事以上の喜びがあるでしょうか。たとえその命が障害を持った子であっても、不幸な環境であっても生きる権利があるはずです。

 最近日本でも、子供がいる為したい事が出来ないと、育児を放棄して実の子を死においやったり、ストレスから子供に暴力をふるって殺した等、悲しい事件が起きてます。

 自分達が創った子供をどうしようと勝手、と思い込んでいるとしたらとんでもない間違いです。

 神様が与えてくださった最高の贈り物である命を人間のエゴで左右する事は、許されない事です。

 子供は親の所有物では有りません、神から与えられた贈り物である事を、皆が忘れている事から悲劇がうまれると思います。

 子供を育てる事は、神聖なつとめです。

 昨年暮れ、フランスで話題になった ”ペルシュ判決” に対し、私は非常に悲しく、腹立ちを覚えました。

 ”ペルシュ判決”を御記憶の方も多いと思いますが、<妊娠中に胎児の異常を見つける事が出来ず中絶の機会を奪われ、障害児が生まれた>と親が起こした裁判で、障害児の子に対する損害賠償の支払いをミスした医者に支払うよう命じた判決です。<障害児として生まれない権利>を事実上認めた判決でした。

 もし、医者が胎児の異常を見つけていたら、あのニュースで親に伴われていた子は中絶されて、この世に存在していないのです。

  女性にも子供を生む権利、生まない権利を認める様、中絶の権利をスローガンにしての運動、そして医学、科学の発達は神様の領域迄も手を出し始め、少しでも胎児に障害の可能性が分かると、当然のように中絶を決定したり、クローン人間誕生研究等と人間の力で生命を自由に扱おうとする恐ろしい時代に入って来ているのです。

 全ての点に於いて共通しているのは、消される命や障害者の立場に一切たって居ない事です。

 生産第一主義の現代社会に於いて、”働かざる者は人に非ず”という社会風潮の中で、障害者は<本来あってはならぬ存在>として位置づけられているのでしょうか?

 障害者も彼等の意見、叫びがあります、まして生まれずして命を断たれた胎児達の叫びを聞く事が出来たら、彼等の叫びはもっと凄いでしょう。世界中で中絶された胎児の数は、戦争犠牲者の何倍もの数字で、これこそ大量虐殺ではないのでしょうか?

 反論を覚悟で私は叫びます”堕胎は殺人行為であり、罪です” 

古い話しになりますが、昭和45年に横浜で起きた重症児殺しの被告であった母親に同情し、被告の無罪か減刑を訴える運動に対し、障害者団体<青い芝の会>の障害者達が被告の減刑反対運動に立ち上がったのでした。彼等の主張は、一番大事なはずの障

害者本人の事を誰一人考える者の無い事を指摘し ”罪は罪として裁く事、障害児は殺されても止むを得えないとするならば、殺された者の人権はどうなるのだ、我々障害者は生きる権利もないのか。私達障害者も生きています。この地球上にみなさんと一緒に生きているのです、いや生きたいのです”と不自由な身体にムチ打って街頭にたって呼び掛け、さらにその後も”障害者の生命と存在を否定する優性保護法正案反対の御署名お願いします”と道行く人々に訴え続けました。

 国家権力という力の元に、国の建設に使える人間、役立つ人間のみを認め、逆に障害者・老人は役にたたぬ人間として生きる権利さえも認めぬ風潮は恐ろしい事と言えましょう。

 障害者、老人、大人、子供、異なる人種の人々が存在し社会が成り立っているのです。

 どんな人々も生き生活出来るような社会にかえるよう戦い、障害者、老人達の世話が家族だけの負担にならぬように、どんな命も受け入れるよう各自の考えを変え、行動出来るように努力すべきです。

 社会、国家、国民11人がその自覚を持ち、育て世話する事の不可能な親や家族の代わりに、それらの人々を受け入れる施設、システムを考え作りあげていくように戦う事しかありません。それは社会の責任として考える事です。

 しかも受け入れる施設が現在存在するような、健全者社会から隔離されたものであってはなりません。

それは、神様が我々に与えられた使命でもあると思います。

 障害者を持つ母親、家族の苦しみ、世話をする苦労を一番知っているのは、障害者自身です。全てを母親、家族の負担として押し付けている限り、悲劇はくり返されるばかりです。

 亡くなられたマザー、テレサも ”神様が私達に勇気を与えて下さるようお祈りしましょう。皆で女性達を助け、恐ろしい堕胎を認めている法律を廃止されます様。神様が命という美しいものを創られたのですから、私達はそれらを破壊する事なく、小さな胎児を恐れず、その子供を受け入れましょう。

 過ちによって未婚の母となった女性達に対しても、家庭で受け入れられないが故に、堕胎せねばならない現実を救う為にもそれらの子供を受け入れる家を作っています。

母親の過ちは神様が許してくれます、生まれて来る子供は尊い宝です、でも堕胎は罪です。

 インドで、私達は堕胎に対して養子縁組で戦っており、堕胎を避ける事によって、多くの命を救い、又家族計画の指導も行っております”と命の尊さを語っていられました。

 

 実は、私自身も危うく中絶される所だったのです。7人兄弟の女1人として誕生しましたが、私のすぐ上年子の兄が次々と生後すぐ亡くなり、母の健康状態が最悪の時で、体力も弱っていたため、医者は母体を考え中絶するよう勧めましたが、母は、医者の言葉を無視し、勇気をもって私を生んでくれたのです。しかもたった1人の女の子に家族中で ”お姫様がうまれた”と大喜びしたそうです。母の勇気がなかったら、私とゆう人間はこの世に存在していないのです。もし自分が中絶され、この世に存在してないなら、と1人でも多くの人に考えてもらいたいと思います。

 又私には4才下の身体障害の弟がいます。1才のとき<結核性せき髄カリエス>になり、幼い時からベッドにくくりつけられ歩く事も出来なかった彼が、普通高校に行きたいと言い出し、努力して松葉つえで歩ける迄になり、痛みの続く足をたたきながら受験勉強していた姿を今も思い出します。

 弟は大学も入りましたが、彼より軽度の友人が家族にも見放され、職場にも見放されて絶望し、焼身自殺した事件にショックを受け、何時迄も家族に甘え、負担させてはいられないと考え、突然家出をしてしまいました。この頃私はすでにフランスに渡り、一番精神的に苦しかった弟になんの力にもなってやれなかった事が悔やまれます。

 彼はその後、足立区の町工場で働きながら、障害者の問題は障害者自身が団結して戦い解決せねばと訴え、一般社会から隔離するような健全者側から見考える福祉対策見直し、障害者の世話が家族のみの重荷にならないよう、障害者の立場にたっての行政を訴え続け、障害者も親元を離れ社会に出て運動しようと呼び掛け、障害者グループに入って今も活動しています。

 丁度この頃、弟の苦しみの手紙を読み、苦しみを分かち合い、救いたい一心で私は聖書を読みだし、教会の門を叩いたのでした。私には祈る事しかできませんでしたが、神様はわたしのつたない祈りを受け入れてくださいました。弟は私より先に洗礼を受けてクリスチャンになり、私の洗礼は後になってしまいました。

 障害者グループの1人であるクリスチャンの女性と知り会い、彼女によって神様を知る事が出来、後に2人は結婚し幸せに暮らしています。彼女が又素晴らしい方で、脳性麻痺障害を持ちながら言葉や動作は不自由でも、妻として弟を助け、小説を書き続け、今はこの弟夫婦が私にとって一番の相談相手、力となってくれています。

 3年前母の葬儀で、障害者の弟が母の遺影に向かって ”僕を生んでくれて有難う、そして障害の身体のお陰でどんなに強くなれたか、ありがとう” と叫んだ時、私も弟と共に今生かされている感謝と感動でいっぱいでした。一番苦しんだのは母自身だったと思いますが、クリスチャンではなかったけれど、母は常に祈りの人でした。政治家の妻として忙しく大変な生活の中で、真夜中、早朝祈っていた母の姿が目に焼き付いています。弟の叫びは、母に対する何よりの供養になった事でしょう。

 再度声を大にして私は叫びます ”生んでくれて有難う、私は今生きています!!”と、、、

200238日 佐々木 真紀