ヒロシマの生きている記憶

‐〈顔〉について(2)         

湯沢慎太郎

第二次世界大戦から57年経った今、私たちは一つの歴史の転換期に立ち会っています。それはこの大戦において起こった多くの苛酷な出来事の証人たちが亡くなって行く年齢になったということです。そして今まで沈黙を守ってきた人が「死ぬ前に話しておきたい」と初めて語りだすといったことも見られます。酷たらしい過去について人を証言に導くものは何なのでしょうか。歴史の証人を聴く経験を通して考えたいと思います。

 2002年8月15日、うだるように暑い夏の夕方、私は八王子市民会館において原水協主催の平和の集いに参加し、被爆者たちの証言を聴きました。五藤光子さんという痩せて背筋のまっすぐな、眼鏡を掛けた半白の婦人は17才の時に広島女子高等師範学校で被爆しました。1945年8月6日午前8時15分、五藤さんが校舎に入った直後にフラッシュのような白い光を見て、気が付いた時には校舎は完全に破壊されていました。五藤さんには放射能によるケロイドがあり、それをかくすために真夏でも長袖の服を着ていたのです。同級生の中にはお見合いを何度しても断られ結婚することの出来なかった方もいるということでした。30才の頃、五藤さんの白血球は3000個まで少なくなり、皮下内出血の紫色のあざが体中に、まるで死斑のように出たそうです。

 五藤さんは放射能による火傷にどれほど苦しんだかを語りました。手当としては飛行機の機械油を着けて貰っただけでした。それだけに広島の河に全身に火傷を負い、亡くなって浮いていた子供たちはどれほど苦しかったことだろうと彼女は想うのです。

 私が胸を衝かれたのはある女学校の入学記念写真を見せてくださった時です。被爆して亡くなった女学生たちの「顔」と「名前」を思い出す時、彼女は本当に生き生きとして来ました。自分の中に生きているこれらの女学生たちの名において語っているのだなと、私は思いました。彼女の危惧は、もしこの記憶を次世代に十分に伝えられずに亡くなったら、ということでした。それは死者たちの「第二の死」ではないでしょうか。

 五藤さんは生命が如何に貴重であるかを訴え、放射能の致命的影響が被爆者の子、孫の世代にまで及ぶ核兵器の廃絶を切実に呼びかけました。

 五藤さんの証言は感動的でした。それは事実を述べているだけではなく、他人に向かって自分の志をのべる、本当の意味での「表現」であったからです。五藤さんは私たちに人間の尊厳について証言をしてくれたのです。

 しかし「記憶」は死ぬこともあります。今、アメリカはイラクに対して戦争を準備しています。そして核兵器を使う可能性を排除していません。日本は世界で唯一の被爆国であるにもかかわらず、政府はアメリカに抗議をしていません。政府はこれを「現実的見解」として正当化しています。ヒロシマ、ナガサキの記憶は生きていることを、現代にかかわることだということを政府は理解していないのです。

 私は政府の人間性を欠いた見解と、五藤光子さんの人間らしい言葉との間にある隔たりに考えさせられました。五藤さんの言葉は心の底からの「私はそこにいた!」という叫びから発しています。それは歴史の生きた経験、自分の人生を取り返しのつかない形で変えてしまった経験の証言です。完全に「中立的」見解などありえません。被爆者と原爆を落とした側の立場の違いは超えることの出来ないものです。ところが政府はあたかもヒロシマ、ナガサキの経験など存在しなかったように考えています。それは国民に思い出させたくない事があるからです。現在の日本の同盟国であるアメリカが原爆を落としたのであり、その戦争は日本が天皇の名において行っていた戦争であったという事です。

 私たちは絶対的な悪の存在について、しっかりと判断しなくてはなりません。歴史の証言者たちの「真実の求め」[1]に対して公正でなければならないのです。人類はヒロシマ、ナガサキを、アウシュビッツを、グラーグ(ソ連の強制収容システム)を経験したのです。何も無かったようにする権利は誰にもありません。虚無の誘惑に対し、私たちが常に選ばなければならないのは「人間の顔を持った者との連帯」[2] なのです。

2003年3月7日 湯沢慎太郎



[1] Paul Ricœur, La mémoire, l’histoire, l’oubli, éd. Seuil, 2000. 329 – 339頁 、ナチによるユダヤ民族虐殺に関する歴史論争(Historikerstreit)を参照。

[2] 同上

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