パリ日本人カトリックセンター開設前後の思い出


飯山 敏道


パリ在住の19年間、日記を付ける習慣がなかったので、パリ日本人カトリックセンターが何年に開設されたか正確なことを覚えていない。
私は1957年にフランス政府給費留学生として横浜を出帆(註1)3,4日後マルセイユに着きその翌日パリに着いた。当時大学都市の日本館々長菊池 慎一先生は私が信者であることを御存じで、毎月の第一日曜日 Rue St. Jean Baptiste de la SalleにあるNotre dame du purgatoire修道女会の聖堂で日本語のミサがあると、誘ってくださった。当時は徳川神父様がパリにおられ、海軍特攻隊名残の白い絹マフラーを付け颯爽と来られ、ミサをたてられることは勿論その後、会合をすることも提案され雑談した。当時は修道女会が昼食を世話されたが、おいしかったことが忘れられない。数年間の間に担当の神父様は何度も交代したが、私達がパロワスと愛称を付けていたこの第一日曜集会は続いていた。
1960年代に入り教皇ヨハネ23世の肝いりでヴァチカン第2公会議が始まる。私達のパロワスを受け持っておられたジャック神父様はミサを日本語でやるようにしましょう。まだ公式の日本語の典礼は出来ていないようだから、私達で日本語のミサの祈りを作りましょうと言うことになり、赤松さんと私が神父様に呼ばれ3人で何回も夜集まって日本語ミサ典礼(仮)を作った。恐らく日本内地より先に日本語によるミサを始めたのではないだろうか。ORTFが取材録音に来たのもこの頃であった。そうこうする裡に、パリ外国宣教会の総長ロンサン神父様から赤松さんと私に呼び出しがかかった。行ってみると
”パリ大司教区に知られていないまま日本人のミサ聖祭を続けて行くのはいろいろな点で良くない。大司教に日本人が集まってミサ聖祭をやることを認めて貰うよう願いを出しましょう”
というご意向であった。そこで私達は願書の草稿をいろいろ考えた。ロンサン神父様は願いでは”何故日本人を主にした日曜のミサをやるだけでなく、日本人が集まる意義を明確に示さなければいけない”と言われいろいろ文案を考えた。今思えばこれがパリ日本人カトリックセンター妊娠4ヶ月くらいの時に相当する。数ヶ月ロンサン神父様と私達は何度も会い草稿を修正し、最終案が出来た。
記憶が確かではないが、赤松さんと私は神父様と大司教館に呼ばれ、パリ日本人カトリックセンターを作る必要性について私達の真意を聞かれ、またパリに”日本人カトリック信徒のゲットーを作らないように”とのご注意を頂いた。公会議で小教区の土着性と言うことが奨励される様になると、私達が集まることの意義はある程度ハッキリしたものの、私達が住んでいるパリの教会ことに居住地の小教区との調和について内心いろいろ考えた。居住しているEssonne ,Massyの教会でも神父様から命ぜられては聖体を授けたり、共同祈願の文面を作る当番が回ってきたりする程度のparoissienであったのだが。 この頃からデュノワイエ神父様が日曜のミサといろいろな集会をお世話下さるようになった。当時 プラース ド ラ ソルボンヌにカトリック学生の組織 サントル リッシュリウーの建物があり、此処の一室を使うことが出来るようになった。
そのうち、パリ日本人カトリックセンターの正式承認がパリ大司教から下り、発会式が 行われた。デュノワイエ神父様は私達が何度も注意したのだが”センターのハカイ式”と云われ皆で苦笑したのも思い出である。  発会式も無事終わり、日曜のミサの他 デュノワイエ神父様の発案で求道者の公共要理、折に触れてパリ在住の日本人名士の講演会(湯浅 年子先生、森 有生先生、酒井新二氏など)、そしてパリにおられるシスターによる読書会、今でも続いているやにもれ承っている、デュプレッシーさんによる”ル モンドを読む会”なども行われていた。当時パリに勉強に来ておられ今は、山口教会におられ火災で消失した聖堂の再建に尽力されたヴィタリ神父様、大阪の明星学園校長を長い間務められ今は理事長をしておられる坪光神父様その他の神父様方はデュノワイエ神父様を助けて御ミサを捧げたり勉強会を受け持ったりされていた。 忘れもしない1968年の春、学生運動に端を発した有名な68年の5月革命ではかれこれ3ヶ月 プラース ド ラ ソルボンヌは警官隊と学生の抗争の場になったり、その後はがらんとしてしまい、センターも十分な活動が出来なかった。しかしその夏ヴァカンスが終わると少しずつ活気が戻りセンターも常態に復した。

ヴァチカン第二公会議が進につれて、教会は聖職者がすべてを司るのではなく信徒も教会を支えて行く重大な使命を担うべきであると言うことが明示され、デュノワイエ神父様と信者達もいろいろ相談してセンターの行事や計画を決めるようになった。この頃からクリスマスの頃或いは新年に皆がごちそうを持ち寄り、大人だけでなく子供達も集まりいろいろ余興をして交歓することが始まった。
デュノワイエ神父様のご尽力のお陰で授洗する人も一度に沢山ではなかったけれど、総計すれば大分な数になっていった。飯野夫妻が結婚されたのもその頃だったと思う。
このようにして十年近くの歳月が過ぎ、私は母校の東京大学から転勤して欲しいと望まれ、なんと言っても、政体が変わっても文化の底にカトリック精神が力強く脈打っているこの国私にとって第2の祖国を去ることに後ろ髪を引かれる思いを断ち切ってフランスを後にしたのであった。
日本に帰ってしたら、デュノワイエ神父様が日本を訪ねられて嘗てセンターに行き来していた人で集まりましょうと尾張さん、進さんが提案された。今でも折ある度ことに銀座、新宿など河岸は変わるがレストランに集まり気勢を上げている。今センターにおられる方々も日本に帰国されましたら是非この会に参加してください。

註*1当時貨客船の船賃は3食付き34日の旅で確か18万円位(Class tourist) 飛行機は南回りかれこれ48時間近くかかって20〜30万円だった。貨幣レートは1$=360円。1仏旧フラン=370円であった

 

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