受難の主日(枝の主日)

マタイによる主イエス・キリストの受難 27・11〜54
2005年3月20日


今日、私たちはイエス様のエルサレム入場を記念しています。
大勢の群集が自分の服を道に敷き、ほかの人々は木の枝を切って道に敷きました。
そして群集は、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」と歓呼しました。ところがこのようにイエス様を歓迎していた群衆も、しばらくすると、その主を「十字架につけろ!」と叫びます。これは2千年前の出来事ですが、現在の私たちのうちにも現れています。私たちは十字架を切り、十字架を愛すると話します。しかし、その十字架が自分に与えられた時、その状況は変わります。自分の十字架を拒み、不平不満をぶちまけるのが、私たちの姿ではないでしょうか?
ある日、イエス様が二人の弟子を連れて、道を歩いておられました。
イエス様は一人一人に同じ重さの十字架を渡して、道の終わるところで待っているから、そこまで十字架を持って来るように言われました。一番目の弟子は軽々と十字架を担いで行くのに、二番目の弟子はひどく苦しみながら後に付いて行きました。十字架を担いでから一日が経って、一番目の弟子は道の終わりに着き、イエス様に十字架を渡しました。イエス様は彼に「息子よ、よくやった」といって褒められました。
二番目の弟子は二日目の晩になって、道の終わりに着きました。
その弟子は十字架をイエス様の前に放り投げて、不満をぶちまけました。
「ひどいじゃないですか。私のは他の弟子よりも重い十字架を渡されたでしょう!?」
傷ついた弟子を見て、イエスは言われました。
「十字架の重さは二つとも同じだったのだ。十字架のせいにするな。お前が不満をもたらすたびに、十字架の重みは増していったのだ。先に着いた弟子は、十字架を背負っている間、愛の業を行ったので、その愛が十字架を軽くしてくれたのだ。だから、苦しまないで運ぶことができたのだ。」
そうです。私たちが十字架を慶んで背負うとき、その十字架は軽くなり、困難を潜り抜けることができるのです。しかし、不平不満の中で十字架を背負う時には、私たちの主を辱めることになるのです。
今日から私たちは聖週間を迎えます。
この時期は私たちがイエス様と共に十字架に架けられ死ななければならない時期です。十字架に釘を打った私たちが、悔い改めと回心の涙で、つぐないを行わなければならない時期です。先だって公開された映画、「パッション」でメル・ギブソンは最後の場面に、イエス様を釘打つ兵士として、短く登場します。これはイエス様を釘打った人間の罪がいかに大きいかを自分も感じ、更に悔い改めと回心の必要性を映画を見る人に大きく訴えかけようとした、監督であるメル・ギブソンの行動だったのです。
イエス様が下さる十字架を喜んで背負っていくか、不平をもらしながら背負っていくかは、私たち一人一人の判断に掛かっています。私たちが毎日のようにぶつかる大小様々な十字架を、喜びの心で背負っていくとき、イエス様はきっと私たちを誉めてくださるでしょう。

アーメン

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