四旬節第4主日

ヨハネによる福音 9・1、6〜9、13〜17、34〜38
2005年3月6日


今日の福音では盲人が登場しっます。
彼は生まれつき目が見えませんでした。彼は一生涯目が見えないという事実によって、毎日毎日を絶望のうちに暮らしていました。生きた居心地はしませんでした。このような絶望のうちにいた盲人をイエス様は目が見えるようにしてくださいました。彼はもう絶望のうちにはいませんでした。毎日が希望でいっぱいになりました。彼は自分の目を治してくれたイエス様を預言者だと告白します。
彼はイエス様を神様がお遣わしになった方であると告白します。彼は単純に目だけが開けたのではなくイエス様が神様の御子であることを知ったのです。盲人の閉じていた目ばかりでなく霊的な目までが開いたという事実を福音は伝えているのです。

その一方で今日の福音はファリサイ派の人々も登場します。
彼らは自ら別の人々とは区別された特別な人であると思っています。律法そのものを知ることが、すなわち神様をよく知ることだと錯覚しています。そして更に盲人として生まれた人を罪人だと決め付けました。彼らはイエス様が神様の御子であることを信じませんでした。彼らは人間に対する愛が少しもないために、イエス様が安息日に盲人の目を治してやったことでイエス様を罪人であると言いました。
彼らはひたすら律法を守ることだけが熱心な信仰生活であると思って暮らしていたのです。彼らの目は見えましたが霊的には盲人です。

私たちは心を開かれた人が好きです。福音に出てくる盲人は霊的に開かれた人です。反対に私たちは自分だけが正しく、他の者は間違っているという人は好きではありません。ファリサイ派の人々は霊的に閉ざされた人たちです。このような人々にイエス様はこう戒められます。
「見えなかったのであれば、罪は無かったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、罪は残る。」

私たちは神様と隣人に開かれた人として暮らしていこうと努力しています。肉のことによってしきりに閉ざされていく私たちをイエス様は福音を通して目覚めさせてくださいます。毎日、イエス様と隣人を受け入れる開かれた心で、さらに霊的にイエス様を神様の御子であると告白しつつ暮らしていく時、はじめて私たちの目が開かれるということ、それが今日の福音が伝える神様のよい知らせなのです。

アーメン

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