年間第31主日

マタイによる福音 23・1〜12
2005年10月30日


今日の福音でイエスは律法学者たちとファリサイ派の人々との偽善を指摘しておられます。辞書には偽善は「本心からではなく、見せかけだけ行う正しいこと」と定義されています。

まず、ファリサイ派の人々は、見せかけだけの行いによって、人々の関心を引こうとしました。
これは、彼らが神を利用していることを表しています。
つまり、彼らの祈る心には神が存在しないのです。

次に、律法学者たちは、多弁でなければ神は聞いてくれないと思っていました。彼らは、祈りが神の愛に対する応えとなることに気付いていなかったのです。

ファリサイ派の人々と律法学者たちは、神そのものを追求することよりは、神をまったく別の用途に利用とすることの方に、大きな関心を持っていました。これはまるで裁判において、事件そのものの事実に重点を置くことよりも、根拠もない言葉を並べ立てる方に必死となっている弁護士の姿を見るようなものです。

聖アウグスチヌスは、自らの著書『神国論』において、次のように述べています。

「善なる人々は、神からの恩恵を受けるために、この世を利用しますが、悪なる人々は、この世からの恩恵を受けるために、神を利用しようとします。」

アーメン

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