四旬節第5主日

ヨハネによる福音 12・20〜33
2006年4月2日


「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」このみことばはイエスの死の神秘を暗示しています。
またこのみことばは私たちがどのように暮らしていけばよいか、その方向を提示してくれています。

麦粒が地に落ちて死ぬということは、その全体が腐ってなくなるということではありません。それは死と同時に命を意味します。すなわち胚芽から新しい命が生まれるための過程です。私たちがそれぞれ麦粒ならば、麦粒の中には神がまかれた胚芽があります。

胚芽が芽吹くためには何よりもまず地に落ちなければなりません。
自分を埋める謙遜さがなければなりません。これは死に向かうために必ず痛みと苦しみが伴います。 次に胚芽が芽吹くためにはそれを取り巻く部分が腐らなければなりません。
不必要なものが腐らなければなりません。自分を諦めることを恐れる麦粒は一粒のままでそのまま残っているしかありません。産みの苦しみを経験しなければ新しい命が生まれてこないことと同じです。そしてその諦めは純粋な諦めとして実行されなければなりません。
他のものを握りしめるための諦めになってはいけないのです。
最後に胚芽が芽吹くためには殻を破って出てこなければなりません。
私たちはみんないくつもの殻を持っています。その殻は私たちを守ってくれますが、変化を恐れるあまり私たちがその中に留まろうとするならば、麦粒はそのままの状態で残るしかありません。

こうして胚芽から出た新芽は一方向に伸びていきます。ひたすら太陽に向かって伸びていきます。そうしなければ新芽は実を結ぶことはありません。
私たちもイエスという太陽に向かわなければなりません。
さらに言うと、実を結んだ麦は結実それ自体に意味があるのではありません。お腹の空いた人々の糧となるとき、はじめて麦は完全に自己成就をまっとうするのです。イエスのように一粒の麦になるとき、私たちはイエスの復活に完全にあずかることができるのです。

アーメン

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