■ 宣教活動…パウロはエルサレムではなくシリアのアンチオキアを宣教の基地として活動した。アンチオキアはローマ、アレクサンドリアに次ぐ帝国第三の都市である。パウロの宣教でまず問題となったのは、イエスをキリストと受け入れた異邦人(非ユダヤ教徒)に律法遵守の義務、特に割礼の必要があるかどうかという点であった。パウロ以前は、イエスを受け入れたのはユダヤ教徒であり、「旧約」の律法を守ることは問題とならなかったが、律法の伝統を持たない異邦人の場合は新しい対応を迫られたためである。エルサレムでの使徒会議の結果、律法の遵守によってではなく「主イエスの恵みによって救われる」ことが宣言され、割礼に代表される律法の遵守については問われないことになった(使徒言行録15章1〜29節)。
■ 第二回宣教旅行と呼ばれる旅では、パウロはギリシア南部の港湾都市コリントに1年6ヶ月滞在し(使徒18章11節)、ここで「テサロニケの信徒への第一の手紙」を書いたといわれる。この書簡は新約聖書中最初の文書である。また第三回宣教旅行と呼ばれる旅では、ローマ帝国アジア州の最重要都市であるエフェソに3年間滞在(使徒20章31節)している。エフェソではユダヤ人祭司長の7人息子の騒動や異邦人の騒動が起こっているが(使徒19章)、「エフェソの信徒への手紙」を読むにあたってはこれらの出来事を念頭におくことが出来る。