王であるキリスト

マタイによる福音 25・31〜46
2005年11月20日


ロシアのクリスマスの伝説に、「四番目の王の伝説」というのがあります。
黄金と没薬と乳香ではなく、珍しい宝石を三つ持って四番目の王は出発します。
王は旅の途中で傷を負って死にそうになっている、一人の子どもに出会います。
彼は子どもを近くの村に連れて行き、幼子イエスに贈るはずだった宝石のうちの一つを村人にあげて、「この子の面倒を見てやってください。」と頼みます。
王は次に、主人のしかばねに付いて行く葬式行列に出会います。死んだ主人がたくさんの借金をかかえて死んでしまったので、その子どもたちは奴隷として売られる運命にさらされていました。
王はまた一つ宝石をやって、彼らに借金を返させます。
もう王にはイエスに差し上げる宝石が一つしか残っていません。ところが、王がまたある村に立ち寄ると、その村は軍人たちに占領され、男たちはみんな奴隷として売り飛ばされようとしていました。
王は彼らを助けるために、最後の宝石も差し出してしまいます。

これで王はもう持っているものが馬一頭だけとなりました。
王はまたしても一人の奴隷に出会います。その奴隷は主人の命令に背いたために、妻と子どもを残して売られていくところでした。王は自分の馬を渡して、自らを奴隷の身代わりとして売りに出します。月日は流れて王はやっと自由の身となりましたが、王はすっかり白髪の老人となっていました。

王はある日、名前も知らない死刑囚の死刑場にいました。
それはまさにイエスの死刑の日でした。
イエスが自分を見つめられたとき、王は全生涯を通じて巡礼してきた旅行の目的に気付きました。王が何も持たずにイエスに手を差し伸べると、三滴の血のしずくがこぼれ落ちました。その三滴の血のしずくは、自分が持っていた三つの宝石よりも、もっともっと光り輝いていました。

救い主を訪ねる旅に立ってから三十年余りが過ぎて、王はようやく十字架の下で何も持たないまま、主に出会うことができました。
四番目の王はまことの王に出会うために、自ら王宮を後にしなければなりませんでしたし、王の身分をも捨てなければなりませんでした。権能と富に対する幻想が、彼の人生の道のりの中で、だんだんと崩れていったのです。

わたしたちが心からイエスに従うことを望むならば、間違った王の幻想から抜け出さなければなりませんし、現世の価値観にしがみついたままの思いと行いに、別れを告げなければなりません。 わたしたちが心からイエスに従おうとするならば、自己中心の世界から一歩ずつ一歩ずつ抜け出なければならないのです。

この四番目の王の伝説は、今日の福音の核心について、理解を深めてくれます。
わたしたちがイエスに近づこうとするならば、財産・権力・名誉ではなく、恵まれない人々、渇いている人々、見知らぬ異邦人に、惜しみのない愛をほどこす道を歩むべきなのです。そうすれば、わたしたちも永遠のいのちへと結ばれることとなるでしょう。

アーメン

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