第十一回 フランスの巡礼地 

アルス  

 

聖ヨハネ・マリア・ヴィアンネSaint Jean-Marie Vianney

178658日、リヨンLyon近郊ダルディイDardillyの農家に生まれたヨハネ・マリア・ヴィアンネは、熱心で愛情深い両親のもとで幼年時代をおくる。しかし、フランス革命の流れは彼の若い彼にも影響を与えることになる。たとえば初告解は村の教会ではなく、自宅の居間の柱時計の下でなされ、潜伏司祭から赦しを受けた。2年の後、宣誓拒否の司祭が捧げる隠れミサの折、納屋で初聖体を受ける。17歳のとき、神の招きに応える決心をし、「神さまのために人々の魂を得たい」と母マリー・ベルーズMarie-Béluzeに申し出る。だが、父親はこの計画に2年の間反対した。父方の家で仕事の手が足りなかったからである。20歳になると、エキュリEcullyの主任司祭バレイ神父l’abbé Balleyのもとで司祭職への準備をはじめた。種々の困難がヨハネ・マリアを成長させる。失意から希望へと歩み、ルーヴェスクLouvescの聖フランシスコ・レジスの墓に巡礼に出るのである。スペインの戦争期間に軍に召集されたときは、脱走兵にならざるを得なかった。しかしバレイ神父はこの困難な時期、しっかりと彼を助けている。1815年、司祭に叙階されると、まず彼はエキュリの助任司祭となった。1818年アルスに派遣される。ここで彼は説教と、特に祈りと生き方を通じて小教区の信者たちの信仰を目覚めさせるのである。果たすべき使命を前に、彼は自分を力なき者と感じていたけれども、すべてを神の憐れみに委ねていた。教会を修復して手入れし、「ラ・プロヴィダンスLa Providence」という孤児院を創設し、もっとも貧しい人たちの世話をした。

ま たたく間に聴罪司祭としての評判が高まり、多くの巡礼者が神の赦しと心の平和を求めて彼のもとに集まって来るようになる。数々の試練と戦いに悩まされなが らも、彼は神と兄弟に対する愛に根ざした心を保ち続けた。唯一つの気がかりは魂の救いだったのである。公教要理と説教ではもっぱら神の素晴らしさと憐れみ について語った。聖体の前で愛に燃えた司祭、神と小教区の信者と巡礼者にすべてを与えた彼は、愛のきわみまで自己を与え尽くして185984日永眠した。彼の貧しさは見せかけのものではなかった。アルスの主任司祭は、自分がある日「告白場の囚人」として死ぬであろうということに気付いてい た。彼は三度ほど小教区からの脱出を試みている。主任司祭の使命にふさわしくないという思い、神の愛の仲介者というよりも神の善意を妨げる者であるとの考 えがそうさせたのである。三度目の脱出は死ぬまで6年もない頃であった。小教区の信者たちは夜中に鐘を鳴らして司祭を捕まえた。彼はこうして再び教会に戻り、朝の1時から告白を聴き始めた。翌日彼は「子供っぽいことをしたものだ」と述べている。彼の葬儀では、司教とすべての教区司祭、1,000人を越す群集を数えることができた。この司祭はすでに彼らの模範であったからである。

1925年、幼きイエスの聖テレジアと同じ年にピオXI世によって列聖され、1929年には世界中すべての主任司祭の保護の聖人と宣言された。教皇ヨハネ・パウロⅡ世は1986年、アルスに巡礼している。今日、アルスは毎年450,000人の巡礼者を迎え、巡礼地としてさまざまな活動を提供している。アルスの聖司祭のもとで熱意を汲み取りにくる司祭のために、司祭寮も設けられている。

バジリカ

 

村に着くとすぐに、バジリカが目に入る。このバジリカは二つの建物、すなわち最初の教会と新しい教会が一つになってできている。最初の教会の赤レンガの鐘楼と内部の脇祭壇はすべて聖ヴィアンネ神父の建築、三つのドームのある新しい教会は聖人の死後建立されたものである。

聖司祭は告白場で女性の、サクリスチア(香部屋)で男性の告白を聴いていた。時には告白の意思のない者を招いて告白に導くこともあった。

彼はアルスの聖母の祭壇を好み、毎日この聖母のもとで必要な信頼心と勇気を祈り求めていた。1836年には小教区を無原罪の聖母に奉献している。

聖母の祭壇の向かいが洗礼者ヨハネの祭壇で、ここには聖司祭が建築した教会の中央祭壇が移され保存されている。

司祭館

7年ほどの間、ヴィアンネ神父は手ずからクレープを焼いたりジャガイモを炊いたりして食べていた。鍋一杯にゆでたジャガイモが数日分の食料であった。ちなみに彼はジャガイモのことを方言でトリュフと呼んでいる。

二階の寝室は、1859年の聖人逝去の日の状態に保たれている。額はすべて聖人が掛けたもので、最後の晩餐のイエス、被昇天の聖母、堅信の際保護の聖人に選んだ洗礼者ヨハネ、アルスから25キ ロの村の主任司祭だった聖ビンセンシオ・ア・パウロ、聖フランシスコ・レジスなどである。ベッドの足元には粗末な靴が残されている。聖司祭は必要とされれ ば真夜中でも小教区の病人のもとに赴いていた。ロザリオは彼が愛用していたものである。彼はしばしば聖ベルナルドの「わたしは説教によってよりもアヴェ・ マリアによって、より多くの霊魂を回心に導いた。」という言葉を繰り返している。

書棚には聖司祭が自己研修を心がけていたことを物語る450冊の蔵書が収められている。昼は僅かな食事の間に聖人伝を、夜は就寝前に霊性の書を読んでいた。

奥の間の陳列ケースには祭服が展示されている。ヴィアンネ神父は神のためには上等の祭服を喜んで買い、自身のためには質素なスータンで満足している

記念聖堂

バジリカの脇に、1905年列福の際に体から取り出された聖司祭の心臓を修めた記念聖堂がある。「跪いて祈る聖司祭の像」は有名である。

出逢いの記念碑

1818年2月、アルスに赴任する途中のヴィアンネ神父は、村の南1キロ足らずのところで一人の少年に出逢う。アルスの小教区の信者、アントワヌ・ジブル少年である。村までの道を尋ねた聖司祭は彼に言う。「君はアルスへの道を教えてくれたので、私は君に天国への道を教えよう。」 現在その地点に記念碑が建てられている。 (アルスHP資料より試訳。幼きイエズス修道会編「アルスへの道」より一部引用。)

 

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